3年地学 暦(こよみ)を科学する2

   3年    組    番 (                              )

 暦(こよみ)とは何か

 太陽と月がどんな動きをするか。これらの自然の現象が、いかに暦(こよみ)に取り入れられてきたかをみていこう。
月の満ち欠けの周期や、季節の移り変わりの周期は、一日の整数倍ではない。また、両者のあいだも、単純な比率関係にない。このことが人を悩ませ、そこに、いかに調和を図るかに努力を重ねてきた。そして、太陽暦、太陰暦、太陰太陽暦という、それぞれ特徴をもった産物が生み出されてきた。

 暦(こよみ)とカレンダー

 私たちのまわりには、さまざまなカレンダーがみられる。普通に使われるカレンダーという言葉は、日の区切り方などを定めた規則である暦(こよみ)を刷り物にした、製品のことである。
こよみの内容についてだけを見ても、そこには、いろいろなものが含まれている。
 もっとも簡単なこよみは、日と曜日だけを示したものであろう。この種のカレンダーでも、たいてい日曜日は色が違えてあり、祝日、および、祝日が日曜日に重なったときの振り替え休日ぐらいはわかるようになっている。

もう少しくわしいものでは、月の朔望、二十四節気などが入る。
 そして、日本の暦(こよみ)で非常に大切な位置を占めているものに、旧暦、および六曜(ろくよう)がある。
旧暦とは、明治五年以前に日本で使われていたこよみである。六曜とは、大安、仏滅などのことである。六曜がこよみの一部というのは、さらに不可解である。このほかに、九星(きゅうせい)というものも掲載されていたり、とにかく、こよみの内容は盛り沢山である。
 さらに、神宮暦(じんぐうごよみ)のように、二十四節気、雑節のほかに、月齢、日月食、日出没、さらに潮汐などが掲載されている。
 しかし、西洋ではカレンダーといえば、日と曜日および祭日(多くが宗教上のもの)を記しただけのものをいうようである。
 アルマナック
カレンダーより内容が豊富で、日々のことがらを記述したものでは、アルマナック(
almanac)というものがある。農業暦や運勢暦がそれにあたる。日本のこよみはカレンダーとアルマナックの両面をもっているが、本来、アルマナックに近い内容であった。

 エフェメリス

 さらに、天体の位置をくわしく計算したものを「天体暦」(英語ではエフェメリス(ephemeris)という。おそらく、外国では、カレンダーとアルマナックとエフェメリスは別物と考えられている。

 しかし、日本では、すべてに「暦」の字をあてた。おそらく、日々のことを記述したものということのほかに、天体の位置、天体の運度が基本になっているということであろう。日本の暦が天文現象をくわしく掲載する伝統をもっているのは、こよみの本質を、きわめてよくとらえているというべきだろう。

 太陽暦のあゆみ

 現在、世界中で、ほとんど統一的に使われているこよみは「太陽暦」である。正確に言えば、古代エジプトで生まれ、ローマでほぼ現在の形になり、その後少し改良されながら、全ヨーロッパに、そして全世界に広まったグレゴリオ暦という名の太陽暦である。

 エジプト暦

 太陽暦が、農耕と密着にかかわりをもちつつ発生したことは明らかである。現行の太陽暦の起源となったエジプト暦を作り出した古代エジプトは、ナイル川の三角州に高度な農耕文明を築き上げた。
 ナイル川は定期的に起こる洪水によって、肥沃な土壌をエジプトの平野にもたらした。この洪水はエジプト人にとって、災害であるより恵みであった。しかし、そのためには洪水の時期を正確に予知して、それに合わせて農作業を行う必要があった。
 ナイル川は毎年、きまった季節に洪水を起こした。それは、おおいぬ座のシリウスが日出の直前に東の空に姿を現すころに、はじまったという。そして、西暦紀元前四〇〇〇年ごろには、一年の長さは三六五日では短すぎ、三六五日と四分の一日に近いことを知っていた。
 気がついたかも知れないが、シリウスと太陽との関係で一年の長さを決める方法は、厳密には間違っている。この方法で求まるものは一恒星年であって、一太陽年ではない。

 うるう年

 太陽暦は、もっぱら季節の変化に忠実であろうとだけに努める暦法であって、月の満ち欠けは、最初から無視している。したがって、太陽暦の暦法上の技術はといえば、いかに一年の長さを、一太陽年に合致させるかということのみにあるといってよい。ところで、一太陽年の長さは三六五・二四二二……日である。どうがんばってみても、一年を毎年同じ日数にすることはできない。エジプト初期の民間暦は三六五日に固定されており、ひとりの僧侶階級のみが、四年に一回、三六六日のうるう年を置いていた。しかし、西暦紀元前二三九年に、四年に一回のうるう年を置くことが制度化された。

 ローマ暦

 私たちが使っている暦(こよみ)は、ローマで制定されたものをほぼ受け継いでいる。ローマは初期には、一年が一〇ヶ月、三〇四日からなる妙なこよみを使っていたが、後に二ヶ月を加え、一年を三五五日とする太陽暦を用いるようになった。
そしてさらに、ときどき、うるう月を挿入して季節と合わせる太陰太陽暦を採用した時代もあった。
 追加した二ヶ月は、当然、年の終わりにおかれたが、次に挙げるユリウス・カエサルの改暦のときに、これが最初にもってこられた。つまり、現在の二月は、かつては年の最後の月であった。現在、九月…、一二月を表わすラテン語系の名前、英語で言えば、セプテム、オクト、ノベム、デセムがそれぞれ、七、八、九、一〇を表わすラテン語であるのは、そのためである。

 ユリウス暦

 やがて、ヨーロッパを制覇し、エジプトを征服したローマは、エジプトの暦法をそのまま取り入れ、西暦紀元前四六年、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)のときに、平年を三六五日、四年に一度のうるう年を三六六日とするこよみを制定した。これを「ユリウス暦」という。

 はじめのころ、運用を間違えたりしたが、西暦紀元前八年、アウグスツス帝のときに、改正を行い、その後、一六〇〇年近く、この暦(こよみ)はキリスト教文化圏で用いられた。ユリウス/カエサルのときのこよみは、一ヶ月は奇数月が三一日、偶数月が三〇日であった。ただ、最後の月の二月のみは、平年は二九日であった。ユリウス・カエサルは、七月に自分の名前のユリウス(英語のジュライ)をつけたが、アウグスツス帝もそれにならい、八月をアウグスツス(英語のオーガスト)とした。ところが、八月が三〇日であったのを嫌い、七月に続けて八月を三一日とした。そして、その後の大の月、小の月も適当に順序を変え、足りなくなった一日を、かつて年末であった二月から減らした。このため、それでなくても平年には二九日しかなかった二月が二八日になってしまったといわれている。

 ユリウス暦とグレゴリオ暦

 一太陽年の長さは三六五/二四二二……日である。四年に一度のうるう年を置くユリウス暦は、これを三六五・二五日で近似したものということができる。その差はわずかで、一年に〇・〇〇七八日、つまり、一二八年で、やっと一日の違いを生じる程度である。しかし、一〇〇〇年以上もたつと、この違いも目立つようになる。

 これが気づかれたのは、キリスト教の教義上の問題からであった。つまり、キリスト教の重要な祭日である復活祭は、春分の日の後にくる最初の満月の、つぎの日曜日とされている。その場合の春分の日は、西暦三二五年に開かれた、有名なニケアの宗教会議のときに三月二一日と決められていた。

 グレゴリオ暦

 ところが、一六世紀には、春分の日は一〇日もずれ、三月一一日になってしまった。そのため、当時のローマ法王グレゴリオ一三世は、これを、ニケア宗教会議のころの三月二一日に戻すために、一五八二年一〇月四日のつぎの日を、一〇日とばして、一〇月一五日とすることにした。

 また、これと同時に、今後このようなことのないように、一年の長さをさらに精密にし、四〇〇年に三回、うるう年をやめることにした。四年に一度のうるう年では、うるう年が多すぎる。西暦三二五年から一五八二年までの一二五七年間に、一〇日多すぎたことから、四〇〇年に3回うるう年をやめれば、ほぼ勘定が合うと考えたわけである。
 四〇〇年に三回のうるう年の除き方は、西暦年数が一〇〇で割り切れ、四〇〇では割り切れない年に除くことにした。これが「グレゴリオ暦」とよばれるもので、現在、私たちが用いている暦(こよみ)である。
 グレゴリオ暦における、うるう年の置き方をきちんと書くと、

? まず、西暦年数が四で割り切れる年は、原則としてうるう年。

? ただし、四で割り切れても、一〇〇で割り切れれば平年。

? ただし、一〇〇で割り切れても、四〇〇で割り切れればうるう年。

となる。これはまた、次のように表わすこともできる。

? 西暦年数が一〇〇で割り切れないときは、四で割り切れればうるう年。他は平年。

? 一〇〇で割り切れるときは、一〇〇で割ったものが四で割り切れればうるう年。他は平年。

たとえば、一八〇〇年、一九〇〇年などは平年であり、二〇〇〇年はうるう年である。

グレゴリオ暦の暦法はこれだけである。これで、季節の変化に十分ついて行ける。月の朔望を無視したのを気にしなければ、グレゴリオ暦は単純で精度の良い、すぐれた暦(こよみ)である。

グレゴリオ暦の一年の平均の長さは、三六五・二四二五日である。これは、三〇〇〇年たって、やっと一日の余りが出る精度である。この三〇〇〇年に一度の過剰のうるう年を、いつ除くかまでは決められていない。

 太陰暦のについて

 太陰とは、月(天体の月)のことで、太陰暦は月だけにもとずく、暦(こよみ)である。一年の月数を一定にする太陰暦が使われている例をあげる。

 イスラム暦

 一年は一二ヶ月で、三五四日か三五五日かである。一二ヶ月を一年としたあたり、やはり太陽から完全に脱却していない。したがって、まったく純粋な太陰暦ではなく、わずかながら太陰太陽暦ではあるが、一般にはイスラム暦は太陰暦として分類されている。

 せっかく一年を一二ヶ月としているが、太陽暦の一年とは長さが一一日も違うから、季節との関係は、どんどんずれて行く。約三年で一ヶ月、一七年弱で、ちょうど半年ずれて、月と季節の関係は完全に逆転する。一年を一二ヶ月にしたことの唯一のメリットは、たとえば、去年の四月は真夏だったから今年の四月も暑いだろうという、だいたいの予測がつくということぐらいであろうか。数年前の記憶は使いものにならない。
 太陽暦に慣れている人たちにとっては、あまりにも不便だと思われるかもしれない。しかし、笑ってはいけない。このことは太陽暦で、たとえば、先月の三日が満月だったから、今月の三日も満月に近いだろうというのと好一対をなすものだろう。
 イスラム暦の平均の一ヶ月の長さは、きわめて一朔望月に近い。イスラム暦の平年は三五四日で、奇数月は三〇日、偶数月は二九日である。平年十九回に対し、一一回の割合で置かれるうるう年は三五五日で、うるう年は一二月が三〇日になる。これによると、三〇年間に三〇日の月が一九一回、二九日の月が一六九回であるから、平均の一ヶ月の長さは二九・五三〇五六日である。一方、一朔望月の長さは二九・五三〇五九日であるから、太陽暦の二千数百年に、一日のズレを生じるだけである。これは、もっとも完成された太陽暦であるグレゴリオ暦の、三〇〇〇年に一日のズレに、ほぼ匹敵するものである。

 回教徒でも、日常生活には太陽暦を用いているところが多いが、宗教的行事はもちろんイスラム暦によって律しられる。このため、有名なメッカへの巡礼の日も、年々一一日ずつ早くなっていく。また、熱心な回教徒はイスラム暦によって年齢を数えるようである。したがって、回教徒は、太陽暦常用者にくらべて、三パーセントほど長生きすることになる。

 太陰太陽暦について

 月の満ち欠けもにも、季節の変化にも、等しく配慮をはらったこよみが太陰太陽暦である。顕著な周期である月の

朔望を尊重し、かつまた、農業などを行ううえから季節を無視することのできなかった地方に、必然的に発達した暦(こよみ)である。
 したがって、太陰太陽暦は、世界各国で独立に発生している。すなわち、バビロニアで、インドで、中国で。それぞれ似たような発達をとげている。太陽暦のもとを作ったエジプト暦にしても、一ヶ月を三〇日にしていたから、初期には何らかの形の太陰太陽暦であったと思われるし、ローマも古くは太陰太陽暦を用いた時代もあった。

 置閏法

 チグリス、ユーフラテスの両河のほとりに栄えたメソポタミア文明の中でも代表的なバビロニアは、西暦紀元前三〇〇〇年ごろに、現在も用いられている星座の原原形を作った民族の建てた国であるが、古くから太陰太陽暦を発達させていた。そして、西暦紀元前八世紀には、一九年に七回のうるう月を置く「置閏法(ちじゅんほう)」を発見していた。

 メトン周期と一九年七閏の法

 ギリシアでは、はじめ、八年に三回のうるう月を置く方法がとられていたが、西暦紀元前五世紀の天文学者メトンのときに、一九年に七回のうるう月を置く方法が採用された。一九年は、太陽年のはじまりと、朔望月のはじまりが、かなり正確に一致する周期で、メトンの名をとって「メトン周期」とよばれる。
 中国でもこのことは知られていて、一九年のことを「章」とよび、「一九年七閏」の法と称して、西洋と同じく一九年に七回のうるう月を置くことが、西暦紀元前五世紀ごろから行われた。

 一朔望月は二九・五三〇五八九日であるから、二九日と、三〇日の一ヶ月を適当に置き、一日が朔とあまりズレないようにしていくことは、太陰太陽暦でも第一の問題点である。しかし、また太陰太陽暦の問題点は、季節と調和させることである。

 一年を一二ヶ月とすると、三五四日ないし三五五日となり、一太陽年に一一日ほど足りない。放っておくと、月と季節がどんどんズレていってイスラム暦のようなことになる。そこで、ときどき「うるう月」なるものを入れて、一三ヶ月の年を作り、季節と合わせる。これが、一般的な太陰太陽暦の暦法である。

問題はこれをどのように入れるかだが、八年に三回置く方法では、この間の月数が九九ヶ月、平均日数が二九二三・五日であり、一方、八太陽年は二九二一・九日であるから、一・六日多すぎる。つまり、八年につき一・六日ずつ季節が早くなる。

中国で行われた一九年七閏の法では、一九年間の月数が二三五ヶ月で、平均日数は六九三九・六九日、一方、一九太陽年は六九三九・六〇日であるから、一九年間で、わずかに〇・〇九日多すぎるだけである。約二二〇年で一日季節が早くなるだけだから、非常に正確ではあるが、これで決して満足してはいなかった。

 朔のズレない、季節のズレない、そして天文現象をよく予報できる、さらに精密な暦法が、中国数千年の歴史を通じて求め続けられた。そして、その努力は、太陰太陽暦を中国から輸入したわが国でも、同様に行われた。他の国では、それほど精密な太陰太陽暦を、もとうとはしなかったようである。おそらく、月と季節とがズレてくれば、その都度、適当にうるう月を入れて調節したのであろう。あるいは、そんな季節とのズレが目立つ前に、国が亡びてしまったという場合もあろう。

 旧暦のしくみ

 太陽にも太陰にも忠実であろうとする太陰太陽暦が、複雑な構造になるのは当然である。これを解決しようとして古来、太陰太陽暦には無数の暦法が考案された。

 天保暦

 日本は七世紀はじめ推古天皇のころ、中国から輸入したこよみを、はじめて採用したといわれる。それ以来、中国輸入のこよみを用いてきたが、一六八五年に渋川春海によって、はじめて、わが国独自のこよみ、「貞享暦(じょうきょうれき)」が作られ、以来、宝暦暦、寛政暦と改暦を経て、一八四四年に、天保暦が作られた。

 真の朔と平均の朔

 中国、日本の太陰太陽暦では、月の第一日を決めるのに、平均的な朔ではなく、真の朔をもってきた。

平均の朔を用いる方法では、二九日の月(小の月)と三〇日の月(大の月)を交互に置き、これでは少し平均の一ヶ月が短くなりすぎるので、一六ヶ月か一七ヶ月ごとに大の月を余分に置く。しかし、この方法では、月の第一日と朔とが一致せず、日食が二日に起こったり、前月の晦日(みそか)に起こったりする。これを嫌ったのであろうか、月の第一日を平均の朔でなく、真の朔で決めるようにしたのである。

一口でこういうが、これは大変なことである。平均朔望月の長さをくわしく知っているだけでは十分でなくなる。月および太陽の運動の遅速を経験的に知って、それを考慮して、少なくとも一年先の真の朔の日付を予報しなくてはならない。これを中国および日本のこよみでは、実際に実行したのである。

 月の第一日目が、このようにして決まるから、月の大小の配列は、まったく不規則になり、毎年異なる。江戸時代に、庶民のあいだでもちいられた一種のカレンダーに一年の月の大小の配列を教えるためのものがあった。これを「大小暦」とよんだ。現在のグレゴリオ暦の小の月を覚えるのに「西向く士(さむらい)」という句をだれでも知っているが、これと同じ配列は江戸時代に三回あり、この句も江戸時代の作である。

 月名のわりふり

 月名をどう決めるか、とくにうるう月を、どう置くかという問題が残されている。これを決めるには、二十四節気が必要となる。その方法は、だいたい次の通りである。

まず、春分、夏至、秋分、冬至が基本となり、これを含む月をそれぞれ二月、五月、八月、一一月とする。春分、夏至、秋分、冬至が、それぞれ二月中、五月中、八月中、一一月中とよばれるゆえんである。

 うるう月

 中気と節気からなる二十四節気は、一太陽年を二四に分けるものであるから、中気の平均の間隔は、三〇・四三六八日となり、一朔望月の、二九・五三〇六日よりも、長くなる。このため、中気を含まない月は、しばしば起こる(だいたい一九年に七回起こる)。この、中気をふくまない月を、うるう月とする。うるう月のよび方は、たとえば一〇月と一一月のあいだのうるう月であれば、一〇月を繰り返し、「閏(うるう)一〇月」というふうによぶ。

 私たちが「旧暦」といっているのは、天保暦をさすと考えてよい。天保暦は明治六年以降廃されたが、いまでも旧暦と称してカレンダーに掲載されているのは、天保暦風の暦法で、それ以降も計算したこよみのことである。ただし、朔の日や節気を決めるのは、近代的な太陽および月の位置の計算式によっている。

 六曜

 旧暦と切っても切り離せないものに、先勝(せんしょう)、友引(ともびき)、先負(せんぷ)、仏滅(ぶつめつ)、大安(たいあん)、赤口(しゃっこう)のいわゆる「六曜(ろくよう)」がある。旧暦の一月から一二月までの各一日(ついたち)の六曜は、いま並べた順序で、あてはめられる。月の中では、一日のものをもとに、やはり、この順序で配列されてゆく。したがって、月が変わるとスキップする。うるう月については、前の月と同じとする。旧暦も六曜も現在では、もうないはずであるが、いぜんとして生き残っている。それどころか、最近ますます熱心に求められるようになってきているとさえ思われる。

 

 

明治の改暦

 わが国は推古天皇の時代に中国から輸入した暦(こよみ)を採用して以来、一貫して太陰太陽暦を用いてきた。明治になるまで、中国輸入のもの五種類、日本人の手によるもの四種類が採用されたが、いずれも太陰太陽暦であって、そう大差はなかった。明治維新後も、しばらくは江戸時代から引き継いだ天保暦が使われた。明治政府は、いろいろな問題に忙しく、改暦にまで手が回らなかった。この天保暦の時代に、はじめての汽車が走ったり、学制がしかれたり、郵便制度がはじまったり、どんどん近代化が進められ、役所の組織なども整えられていった。しかし、国際社会に仲間入りし、近代国家として出発したわが国が、太陽暦を採用しなければならないことは必至の情勢であった。

 明治五年(一八七二年)一一月九日(グレゴリオ暦で一二月九日)、政府は突如として改暦の勅書を発表した。勅書には、太陽暦が旧暦にくらべて、いかにすぐれているかがのべられていた。そして同時に出された大政官布告では、きたる一二月三日をもって、明治六年一月一日とすることが打ち出されたのである。

 世の中が騒然となったことは、想像にかたくない。とにかく、あと二一日しかない。こよみを作る業者は当然のことながら、すでに天保暦による明治六年の暦を売り出していた。一方、太陽暦のこよみは、まだだれも作っていなかった。というのは、明治政府は、この改暦の計画を極秘のうちに進めていたのである。

 明治政府のおもわく

 明治政府が明治五年の年末近くなって突然、改暦を断行しようと決意した裏には、国際的仲間入りなどという表向きの理由のほかに、財政上の抜き差しならぬ事情があった。つまり、明治六年には閏(うるう)六月があり、一年が一三ヶ月の年に当たっていた。明治四年から役人の俸給は月給制になっていたが、旧暦のままだと、一三ヶ月分の給料を用意しなければならなかった。ところが、新暦にすることにより、これを一二ヶ月分ですますことができた。しかも、明治五年一二月は二日で終わりということで、この月の月給も払わないですませてしまった。というわけで、当時財政上の大ピンチにあった政府は、二ヶ月分の給料を浮かせることに成功した。

 明治三一年の勅令

 明治五年一一月九日の大政官布告にのべられていたものは、四年に一回のうるう年を置くというだけの、ユリウス暦の太陽暦であった。しかし、意図したところは、当時、欧米の多くの国で行われていたグレゴリオ暦の採用であって、グレゴリオ暦に日付けも合わせた。しかし、このままでは、まもなくくる西暦一九〇〇年を、うるう年にしなくてはならなくなり、外国と一日ずれてしまう。そこでまた、政府は明治三一年(一八九八年)五月一一日に勅令を出し、西暦年数が四で割り切れる年をうるう年とする。ただし、一〇〇で割り切れ、かつ四〇〇で割り切れない年は平年とする、というグレゴリオ暦の置閏法を定めた。

この勅令と明治五年の大政官布告とによって、日本がグレゴリオ暦を採用することが規定されているのであり、この二つの法令は現在も生きているわけである。ところが、明治三一年の勅令の中では、西暦という言葉を用いず、神武天皇即位紀元元年から六六〇を引いたものという表現がとられており、これは、近年になり、しばしば物議をかもすところとなっている。

 

旧暦の例

 十干十二支(じっかんじゅうにし)の組合せで、あらわす。

 十干(じっかん)…… 甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、

       庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)

十二支(じゅうにし)…… 子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、

        申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)

たとえば、甲子(きのえ ね)、乙牛(きのと うし)、丙寅(ひのえ とら)…という順。

平成一二年は、庚辰(かのえ たつ)、昭和五六年は、辛酉(かのと とり)、昭和五七年は、壬戌(みずのえ いぬ)、昭和五八年は、癸亥(みずのと い)、昭和五九年は、甲子(きのえ ね)、…となる。

二〇〇〇年一月一八日は、乙亥(きのと い)、一月一九日は、丙子(ひのえ ね)、一月二〇日は、丁丑(ひのと うし)、…となる。